5〉革命および反革命

Revolution and Counter-Revolution(1851-52)
マルクス=エンゲルス

構成

本書は一八五一年十月から五二年十二月までにわたって、「ニューヨーク・トリビューン」紙に、一八四八――四九年のドイツ革命について書かれた二十回の論説から成っている。筆者はマルクスといろことになっているが、実はマルクスが提供した材料によつてエングルスが書いたものである。その主な理由は、マルクスは当時まだ英文で論説を書くほどには、英語に通じていなかったことにある。最初の十六章は主として反動の原因とその進行状態とをのべ、第十七章ではブルジョア自由主義的革命におけるプロレタリアートの役割と反動の勢力とについて論じている。

内容

著者は第一章「革命前夜のドイツ」の中で、暴動とその敗北との必然的な原因を研究する場合の注意をのべ、それらの原因は二三の指導者の偶発的た努力や才能や缺点や裏切に求むべきものではなくて、その動乱を起した各国民の一般的社会状態や、生活條件の中に求むべきものである、特に当時の各階級の構成とそのカの介析とによって、その原因をつきとめるべきものであると言つて,唯物史観の具体的た適用方法を教えている。
次いで著者は革命前夜のドイツの階級構成についてみごとな分析を興えている。著者が指摘していることは、(1)ドイツには、イギリスやフランスの場合とはちがって、まだ封建貴族による土地所有制度が行われていたこと、(2)ブルジョアジーは、富の集中においては、英仏のそれには遥かに及ばなかったこと、卽ち、階級としての大資本家大工業家の発展がはばまれていたこと、(3)その結果、小商人階級(プチ・ブル)が大都市の住民の大部分を占めており、叛亂の指導階級となるものであつたこと、(4)労働黨階級の社会的政治的発展が後れていたこと、(5)小自作農と農業労働者とが全国民中の驚くべき多数をしめていたこと、である。このような階級構成と当時ドイツが三十六の侯国に分裂していたこととに基いて、ドイツ革命運動には共通の利害も目的の一致もなく、まして行動の一致がなかったため、血と勢力と資本とが費されたにもかかわらず、決定的な結果を残さないで終ったのである。
ドイツ革命は、フランスの二月革命の直接の形響をうけて、三月十三日にはウィンに、十八日にはベルリンに蜂起した。他の諸侯国でも叛亂がおき、そのため諸侯と貴族とは屈服した。そして五月十八日には一般選挙によつてフランクフル卜・アム・マインのドイツ国民議会が生れたが、それは公論家の集りにすぎないものであって、諸侯の連邦議会のカに屈してしまった。パリ労働者の六月敗北はドイツの旧封建勢力を反革命化させることにより、その決定的な事件は一八四八年十月のウィン叛亂とその虐殺となって現われた。
フランクフルト国民議会は反動の圧力の下において帝国憲法を作り、一八四九年三月にはプロシア王をドイツ皇帝に選挙した。ところがプロシア政府はこの憲法は最も無政府主義的な革命的な文書であるとして、これを否認し、王侯の会議である舊連邦会議に当るものを召集して、既に法律として発布されている帝国憲法を裁かせた。他の諸候国も直ちにこの例にならった。これに対して、帝国憲法に執着のある小商人階級の大衆は到るところに民衆の集会を開いて、もし必要ならば、策法と国民議会とを守るために武力をもって立つという決議を通過させた。かくして、連邦政府と国民議会との衝突は五月上旬に公然たるものどなったのである。
叛亂はまずドレスデンで爆発し、ついで各地に廣がった。そのすべての場合において、武器をとつて軍隊と交戰した眞の斗争團体は都市の労働者階級であった。後には小農民、農業労働者、学生も参加したが、それらのものは闘争が眞剣化すると姿を消した。労働者階級はこの闘争は直接的には自分たちの闘争でないことを充分に知っていたが、武器をとって立ったのである。それは、あらゆる社会革命の場合に、有力な階級であっても勇氣の乏しい諸階級を断乎として革命の行程に進撃させるために、何れの叛亂にも積極的に参加することが、労働者階級の歷史的運命であるがらであった。
しかしドイツのとの叛亂の指導的階級は小商人階級であった。あらゆる叛亂地方にできた臨時政府の多数派は小商人たちであった。だがこれらのプチ・ブルたちは言葉では勇敢であったが行動では臆病であった。彼らは叛亂を激勵した。だがその叛亂が労働者階級の手で消化されてゆく事態の結果を恐れた。叛亂が成功すれば自分たちが逆に窮地に陥るであろうことを知った。そこで彼らは叛亂の效果を打破する策bL努し、遂に叛亂を破滅に導いたのである。例えば、ドレスデンでは市街戰が四日間続いた。その叛徒は主として隣接の工業地帯からの労働者から成り、その沈着有能た指導者はロシアの亡命者バクーニンであった。だがドレスデンの自警團卽ち小商人たちは戰わなかったばかりか、叛徒を攻撃する軍隊の行動に便貨を輿えたのである。
ドイツ西南部の各地に廣がったこの叛亂も七月中半ば頃までには鎭圧され、国民議会は解散されて、最初のドイツ革命は失敗に終った。だがこの経験で支配階級は、叛亂的戰争においては、二萬の革命軍を倒すためには十萬の訓練ある正規軍をもってしてもなお不充分なほどであるということを、知らされたのである。

参考

邦譯『革命および反革命』はマル=エン全集第五巻に収められている。なおメーリング者『ドイツ社会民主黨史』および『ドイツ社会文学史』などを参照するがよい。

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