26〉資本論

Das Kapital(1867-94)
マルクス、カール

なりたち

マルクスは『資本論』がどうして生れたかについて、『経済学批判』*の序文の中で簡潔に説明している。大体それによって述べると――
マルクスは一時中絶せざるを得ないでいた経済学の研究を一八五〇年にロンドンで再び始めることができるようになった。かれは勤勉に大英博物館に通って、そこに集められている経済学の歷史についてのおびただしい資料を研究した。当時イギリスはブルジョア社会の成長が最も進んだ国であり、ロンドンはその中枢であったから、この社会を観察するには一番よい場所であった。なおその上、ブルジョアジーがカリフォルニアやオーストラリアで黄金を発見して以来、資本主義社会は新しい発展を示すようになっていたので、マルクスは新しい資料を加え、構想を新たにして、批判的な研究を貧苦と病苦とに惱まされながらも進めたのである。その結果生れたものが、まず『経済学批判』(一八五九年)であり、つぎに本書、『資本論』であった。
『資本論』の第一巻は一八六七年にマルクス自身のてで公にされたが、第二巻を出さないで彼は一八八三年に死んだ。そこで、かねてマルクスの依頼をうけていたエンゲルスがマルクスの原稿を整理して、第二巻を一八八五年に、第三巻を一八九四年に出版した。エンゲルスは残りの現行全部を第四巻として出すつもりであったが、それを完成しないで九五年に死んだ。そこで、当時マルクス=エンゲルスの最高の弟子であったカウツキーがその仕事を引きつぐことになった。カウツキーは仕事を進めてゆくうちに、残りの原稿は『資本論』第四巻としないで、別のものとして出す方が適当である頃を知ったので、それを『剩餘價値学説史』*全三巻(一九〇四-一九一〇年)として出版した。たから、『経済学批判』と『資本論』と『剩餘價値学説史』とは切り離せない関係にあるものである。

くみたて

『資本論』は全三巻からなっている。第一巻は「資本の生産過程」、第二巻は「資本の流通過程」、第三巻は「資本制生産の總過程」である。第一巻は、商品の分析から初めて、剩餘價値そのもののこと、そしてまたそれがどうして生産されるかを説いている。第二巻は、剩餘價値はどのようにして流通されるかということ、言いかえると、資本はどのように流通段階を通って剩餘價値を貨幣に実現するかということを明らかにしている。第三巻は、前の「生産過程」で精算され、「流通過程」で実現された剩餘價値は資本の関係者たちの間でどのように配分されるか、利潤あy利子や地代などはどうしてうまれるか、などについて述べている。

何のために

『資本論』は何のために書かれたのであろうか?それについては、マルクス自身が、第一巻の「第一版への序文」の中で、簡明に、「近代社会の経済的運動法則を暴露することが、この著作の最後の究極目的である」と言っている。言いかえると、『資本論』は近代のブルジョア社会の「発生・存立・発展及び死と、他のより高級なる社会有機体による交替とを支配するところの、特殊な諸法則」(マルクス)を明らかにするために書かれたのである。
同じことをレーニンは次のような言葉で説明している。――「マルクスは『資本論』において、まずブルジョア的商品社会の・最も簡單な・最も普通な・最も基礎的な・最も大量的な・最も日常的な・幾億回となく観察されるはずの関係、すなわち商品交換を分析している。その分析は、このもっとも簡單な現象のうちに(ブルジョア社会のこの細胞のうちに)、現代社会のすべての矛盾を(乃至はすべての矛盾の胚種を)発見している。それより以上の敘述は、これらの矛盾と・その根本構成分の總休より成るこの社会との発展(成長ならびに運動)を、その初めから終りまで、われわれに示している」と。

學ぶ手引き

『資本論』を讀むことは勿論、容易なわざではない。だが、社会科学を本当に研究しようと思う者は一度は讀まねばならないものである。レーニンもすすめているように、少くとも第一巻だけでも幾度かくり返して讀むべきものである。しかし、何の準備もなしに讀んだのでは、仲々わかりにくいものだから、それを讀むための準備や案内書のことについてお知らせしよう。
『資本論』を讀んで理解しうるようになるための最も基礎的な準備は、マルクス主義の哲学的基礎を一同学んでおくことである。つまり、唯物論・弁證法・唯物史観というものについて勉强しておくということである。この準備がなければ『資本論』の入口に立つこともできない。川上肇博士の書著に『マルクス主義経済学の基礎理論』(昭和四年、改造社版)という・書名はいかめしいが大変わかりやすく書いてある書物があるが、その上篇は「マルクス主義の哲学的基礎」となっており、下篇が「マルクス主義経済学の出発点」となっているのは、博士が右のような準備の必要であることを示されたものである。
さて、そういう準備のある人は、『資本論』全体でマルクスがどういうことを言っているかのあらましを一應知るようにするがよい。それには、越村信三郎著(改定版)『やさしい資本論』(労働文化社版)がいいであろう。この小冊子の特色は『資本論』全三巻にわたって、やさしい言葉でわかり易く解説していることである。だが、もう二つだけどこの本のいいところがある。それは、はじめに「マルクスの傳記」をつけていることと、あとの方に、『剩餘價値学説史』全般についての開設をつけていることである。それによって讀者はマルクスの人格に触れることができるし、またはじめに言ったように、『資本論』の後篇と言うべきこの『学説史』がどんなものであるかを知ることができるからである。
そういう準備ができたら、『資本論』そのものにはいる前に、マルクスの『價値と價格と利潤』と『賃労働と資本』*という小さな本を讀むがよかろう。この二つはマルクス自らが書いた『資本論』への案内書と呼ばれているものであって、入門書としてはぜひ讀まねばならないものである。

入門書

さて、次にはいよいよ『資本論』であるが、それへの入門書として奨めることのできるものは、既述のほか河上肇著『資本論入門』(世界評論社版)、辰巳経世著『資本論讀本』(三和書房)、宇野弘蔵著『資本論入門』(白日書店)などがある。河上博士のものはさきにあげた『マルクス主義経済学の基礎理論』の「下篇」と大体同じものである。しかし、この「下篇」は『資本論』の第一巻第一章「商品」と、第二章「交換過程」とを解説したものであるが、『資本論入門』の方は第一巻の全体にわたっている。従って、1千頁に近い大部なものである。
外国人の書いた解説書で責任をもって奨められるものはアドラツキイ版のアドラツキイ自身の序文や、でぇ・ローゼンベルク著『註解・マルクス資本論』(直井武夫譯、昭和六年、希望閣版)である。ローゼンベルクはソ同盟「共産主義アカデミー」に属する理論経済学者である。彼は『資本論』の全体にわたって註解をかいているのであるが、邦譯では第一巻の部分(上下二冊)だけしかでていないのは、惜しいことである。
このローゼンベルクの『註解』はまことに厳しい指導書であって、それは『資本論』について語るといったなまやさしい態度のものでなくて、それを一章一章、純を追うて研究させるための指針である。彼は幾度も繰りかえしてこう言っている。――「資本論を系統的に研究すること、頁から頁へと、章から章へと、残すところなく讀むこと、そして、マルクスの方決論を体得すること」と。彼の『註解』はそういう学び方をするための案内書である。もし彼に従って『資本論』を第一巻が讀めたら、その成果はすばらしいことであろう。なお、ラビドッス=オストロビッチヤノフ共著、橋本弘殻『マルクス主義経済学教程』(白揚社版)は、直接に『資本論』を解説したものではないが、その理解を深めるための参考書として推奨することができる。

邦譯

『資本論』の邦譯は最も古い高晶譯をはじめ、宮川譯、長谷都譯、向坂譯など教種類出ているか、又は出かかっているが、こゝでは特にどれがよいと奨めることは避けておく。その何れを選ぶにもせよ、單に『資本論』に関するお話だけを讀むのではなしに、解説書をも十分に活用しつつ、直接『資本論』そのものを讀むことが大拙である。そういう態度で讀む人は、『資本論』が單に「経済学の批判」(これは『資本論』の副題である)をしているだけのむずかしい理論書、言いかえれば抽象的な骨組みだけの本ではなくて、実は、資本主義そのものの生きた機構と、その下で搾取されている働く大衆の現実の姿とをまざまざと示してくれる(実際そういう事例に満ちている)書物であり、資本主義の変革の必然性を否應なく教えてくれる貴重な案内書であることを自ら知るであろう。
なお『経済学批判』*や『剩餘價値学説史』*をも併讀すべきは言うまでもない。

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